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	<title>IKIMONO net club</title>
	<link>http://www.ikimono.org/diary</link>
	<description>IKIMONO DIARY</description>
	<lastBuildDate>Sat, 14 Aug 2010 05:45:51 +0900</lastBuildDate>
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		<title>自分のイメージ</title>
		<description>ごく最近気付いたのだが、自分が頭の中で思い描いている自分の姿と実際の姿が近頃かなり似てきたと思う。
長いこと、鏡や写真を見るたびに「自分はこんなに目がつりあがってはいないはずだ」とか「こんなにわざとらしい笑みを浮かべないはずだ」などと思ってきた。長いこと、そう、少なくとも三十代の頃から。
ということは、なんと私はずっと、漠然とながら20年以上も老けこんだ後の自分を「しっくりくる自分の姿」として思い描き続けてきたらしい。
変な奴だ。


ごく若い頃、たとえば二十代の頃に、もう少し成熟した感じに憧れるなどということはあるかもしれない。
しかし、三十代になっても四十代になっても一貫して「違う」と想い続けてきたらしいので、変なやつだと思うのだ。四十代になったら「いつまでも若いつもりでいたけど、老けたなぁ」と思うとか、そういうことがあっても良かったんじゃないか。自分はもっと若々しく見えるはずだと思い込んでいた、というようなことは大いにあり得たはずだと思うのだ。
しかし、そうは思わなかったらしい。


自分の今の精神的・肉体的な状態は、悪いとは言わないが、正直なところさほど良い状態であるとも言えない。
だから「齢を重ねて人生の充実期に」みたいなことはない。（そもそもその手の言葉の99％は歳をとって心も体も以前ほど積極的になれなくなってしまったことを安定や満足と言い換えて自分を騙していることだと思っているので、信じたことはない）。
じゃあ今の自分の、あきらかにいささか老けた自分の外見や雰囲気の何が自分を納得させているのか、そのへんが分からないのだ。


実際の自分が、とうとう思い描き続けてきた自分に追いついたのだとすると、これから先は鏡や写真を見るたびに逆のことを想うようになるのかもしれない。「もっと若々しいと思っていたけれど老けたな」とか。
もっと老けるというのは常に未来に実現の可能性があるが、もっと若くなるということは二度と可能性がない。絶対に可能性のないことを期待したり、そのために自分を騙したりするようにはなりたくないなぁ、と思う。
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		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/606</link>
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		<title>『傷だらけの店長』帯付き　表と裏</title>
		<description>

裏表紙が紹介されることってわりと少ないと思うので、載せてみました。
忙しい最中にちゃちゃっと撮ったのであんまり綺麗じゃなくてすみませんです &#62; 関係者各位

さあ、みなさんのお手元にも、もうすぐ届きますよ。 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/605</link>
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	<item>
		<title>「傷だらけの店長」表紙画像</title>
		<description>表紙画像が出来た、とパルコ出版の方から連絡を頂いたのでリークしますよ（……仕事中だけど）。



→　パルコ出版『傷だらけの店長』特設サイト


よろしければご利用を。↓
「傷だらけの店長」伊達雅彦（注文書あります）
 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/604</link>
			</item>
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		<title>「傷だらけの店長」伊達雅彦（ゲラ拝受）</title>
		<description>「傷だらけの店長」のゲラを頂きました。
なんだかいつも以上に混みまくっている午後11時あたりの仕事帰りの電車の中で、立ったまま一気に半分近く読みました。
金曜日だったんですね、気がつくと。
酔っ払って声高にしゃべるグループに囲まれて黙々とゲラを読みながら、思い出したりしました。
書店員だった頃は「おや、世間は金曜の夜ってやつですか」とか「世間は連休だそうですな」とか、胸の中でいつも言っていたなぁ、と。


それはそれとして、隣の女性の肘があばらに刺さってくるような電車の中で一気に読んだという事実は、これはまあ、なかなかのものじゃないでしょうか。
 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/602</link>
			</item>
	<item>
		<title>「傷だらけの店長」伊達雅彦（注文書あります）</title>
		<description>
すでにご存知の書店員さんも多いことと思いますが、「新文化」連載で話題になったあの連載が、大幅加筆されて書籍化されます。
7月中旬発売予定
予価：1,680円
ISBN：978-4-89194-824-5　Ｃ0095
PARCO出版
（クリックで拡大表示）

PARCO出版のご担当に許可をいただいて、以下に書店用事前注文書のPDFが置いてあります。
どうぞ発注にお使いください。
「傷だらけの店長」注文書（PDF 150KB）
ちなみに私は伊達雅彦氏の知り合いではありますが、PARCO出版の「中の人」でも関係者でもありません。
っていうか、滅多にない本だからみんなでちょっと盛り上げていこうよ、です。 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/601</link>
			</item>
	<item>
		<title>Evernoteをあきらめる</title>
		<description>いよいよ日本語版もベータ段階に入ったというタイミングで書くのもなんだか間が悪いけれど、個人的には当面 Evernote を使うのをあきらめた。
先に言っておくと、Evernote というサービスそのものに対する批評・批判ではなく、単に自分のライフスタイルと相性が悪かった、というだけの話だと思うので Evernote 大好きな人々はこの記事はフッ…と鼻で笑って無視しましょう。
一番の理由は「見ないじゃん」ということだった。
これは実は delicious  も同じ状態に陥っているのだけれど、一旦保存したものをあとで見直したり、活用するために検索したりしたことがほとんど無い。極端な場合、全く同じ情報を毎回Googleで検索し直していたりする、新たな情報が欲しいわけではなく単に特定の目的ページのURLを覚えていないというだけの理由で。
インターネット上の情報は消えてしまう可能性が常にある。だから自分にとって特別に重要だと思われるものはそのコピーを自分自身で保存しておくべきで、そいういうことに Evernote は手軽で便利。しかし、結局見ない。というか保存したこと自体を忘れる。保存してあるのかどうか Evernote に検索をかけるのが面倒。
そもそも常時目の前に無いから調べ物をする瞬間にはその存在自体を忘れてしまっているという、根本的な問題さえある。
ローカルPC用の Evernote アプリをインストールしていないからますますそうなるのだけれど、WebサービスとよくできたWebクリップ用のブックマークレットがあるのに、さらにローカルにアプリを入れるという発想にはどうしても馴染めない。何かのWebサービスでブックマークレットひとつで済むにもかかわらずFirefox拡張が用意されていたりすると眉をひそめるような人間なのでちょっと極端かもしれないが、なんとも冗長という感じがして Evernote のローカルアプリを使う気になれない。
タグ付けができて、検索ができて、さらに画像の中の文字列まで検索出来る。
うん確かに便利。
でもまあ、画像の中の文字の認識は別として、それ以外は Evernote ならではというほどのものではない。
個人的には、実はかなり前から半ば無意識に Evernote が担うべき役割の代わりをさせていたものがすでにあった。Gmail。
日常的に常に見えるところに置いてあって、一日に何度も利用することが習慣化しているので、その存在を忘れるということはまずない。
テキスト情報であれば検索が非常に速く、優秀。
その上、以前からあとで読むを使っているので、気になったものは一番最初の段階としては必ずそのページ全体がテキスト化されたメールという形でGmailに蓄積されている。
自分宛のメモ専用として区別できるように 自分のアドレス + memo@gmail.com というアドレスを昔から使い分けているので、情報クリップではなく自分で書いたメモも他のメールと区別できる。
そして最近ラベルを階層化できるようになってしまったので、あとはちゃんとラベルを付けさえすれば、クリップしたりメモしたりして手軽に一箇所に放り込み、タグで分類して、検索できる。あら…自分には実は Evernote 要らないんだ、という話。
諸々のサービスが言うような「メールのように」ではなくメール操作そのもので事実上完結している潔さが、面倒臭がりかつ物忘れが激しい自分にとって貴重。
紙情報をスキャンしたものをさらに活用するということが増えてくればGmailだけではまかない切れなくなってくる可能性はあるが、今のところ画像やPDFにした書類を閲覧する、というだけであればGmailに投げておいてGoogleドキュメントで見る、というだけで十分だしなぁ。
というわけで、ひとまず当面は（日本ではこれから盛り上がるかもしれないのに）自分に Evernote を使わせるのは諦めました。 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/599</link>
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		<title>バンパイアのキュレーター</title>
		<description>乗り換え駅の通路でポスターを目にして、思った。
「いや、それを昔と言われては…」
川崎市民ミュージアムでやっている昔のくらし・今のくらし２０１０−くらしの道具のうつりかわり−という毎年恒例の企画展らしい。
館長のブログの「昔のくらし　今のくらし」が始まりました。学校給食もぜひどうぞ。という記事に、再現された昔のくらしの様子が一部載っているが、実のところ私自身は幼い頃、実際に自分の家の中にこれらのものがあったり、あるいはそこまでではなくてもほぼこのままの雰囲気の祖父母の家を夏休みに訪ねたりして暮らしていたものだった。
まあつまり、今の小学生くらいから見た場合、私の子供時代はもうある種「歴史」の範疇になるほど、私が歳をとったということだ。
やれやれ。
冗談で、バンパイアになって数百年くらい生きてみたいと思うことが時々ある。
いろいろ面白いだろうと思うのだが、この空想には、実は何をしながら暮らしていることになるのか具体的に思い浮かべるのがちょっと難しい、というささやかな問題があった。
昔のくらしの展示を企画することが仕事にできるなら、キュレーターになって自分が生きてきた100年前、200年前の生活を詳細かついきいきと再現するというのも面白い、とちょっと思った。
これで本当にバンパイアをやることになっても、なんとかなる。 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/595</link>
			</item>
	<item>
		<title>ハイダイナミックレンジ合成とか、ピントとか、ビジョンとか</title>
		<description>最近何かにとりつかれたようにずっとtumblrにFlickrなどで見かけた風景写真をクリップし続けているけれど、そんな写真で使われることが多くなってきているのがHDR。
ハイダイナミックレンジ合成（Wikipedia）。
素直に使われていれば確かに綺麗で隅々まで見やすい写真なんだけれど、どう考えても悪夢だな、というものもある。
プロが使っている場合は多分（全くの想像だけれど）そんなことにはならないんだろうけれど、素人はやりすぎになりがち。自分自身がHDRで生まれてくる独特の輝きに興奮してしまって無意味に、無目的にエフェクトをかけ過ぎているだけとしか受け取れないものが山のようにある。


写真を沢山見続けていると、それ以外にも色々なことがなんとなく分かってくる。
構図には案外独創性がなく似たような、おそらくはどこかで見かけたすぐれた写真の構図を半ば無意識に真似たようなものがとても多いこと。
あともうちょっとでいい写真になるのになぁ、というものの多くは、思い切ってフレームの外に切り捨ててしまった方が良かったものが入り込んでいる。余計な何かが写っているという意味ではなく、要はもっと「寄って」しまうべきだったということ。
そして、ピントが甘い。
そういった諸々を総合してちょっと意地悪く言ってしまうと、素人がものにするいい写真のほとんどはおそらくチャンスと素材に偶然めぐり合った結果に過ぎない。


まあそういうことが分かっていたとしても、自分で写真を撮影してもやっぱりダメな写真しか撮れないと思う。
目が悪すぎて、ファインダーを覗いている時に狙ったものに本当にピントが合っているのかどうかどうしても確信をもてない、という現実的な問題もある。これはまだ高校生だった頃、新聞記者だった父親のそれなりにいいカメラを借りて少し撮影をした時にすでに、常に感じていたことだった。
訓練を積めば、自分の悪い視力でどんな感じに見えている瞬間が「実はピントが合っている」のかということが経験則で分かってくるという可能性はあったと思うが、今となってはもうそこまでする気力も、多分無い。
それよりも、高いレベルの写真を撮り続ける人は、実は自分の中に何らかのビジョンがあって、毎日、毎時、撮影するに値する素材をずっと探し続けている。なにか素敵なものがあったから撮影するという、ごく当たり前のように見えて偶然任せなことは実はしておらず、ずっと意識的に探し続けているのだ。
これが何か変なことだと感ずる人もいるかもしれないが、たとえばある種の好みが自分の中にある程度出来上がっていてその好みに合うものを常に探して本屋のコミックスコーナーに毎日のように立ち寄る、というようなことは、よくある。写真を撮影するというのも似たようなものだろうと思う。
自分にとって世界はこう見える、というような好みのビジョンが存在していて、よい写真を撮る人は実はそれを撮っているのだろうと思う。
私は、そこまでにはおそらく決してなれない。
ただ他人の成果物の中から自分のビジョンの欠片を拾い上げるだけだ。
 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/594</link>
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		<title>SFガジェットの夢 iPhone</title>
		<description>iPhoneアプリのsleep cycle、面白い。
→　sleep cycleのリアルタイム結果（Twitter）
こういう風にiPhoneが使えるのは実に興味深い。これは昔のSFに描かれていた夢とかをなんとなく思い出させるものがあるなぁ…と漠然と思いながらニヤニヤしていた。
SFのアイディアそのものというより、SFの中に出てくるガジェットそのものだよな、たとえば医療器具にさえなってしまうスタートレックのアレとか…などとさらに思っていた時、なんだか急にiPhone人気の理由が腑に落ちた。腑に落ちたような気がした、個人的には。
iPhoneは昔のSFガジェットの夢が実現されたものだな、まさにそのまま。しかもAppleがいいデザインで出したからますますそれっぽくなった。電話としては今ひとつ使いにくくないですか？ とか、実はiPod nanoで十分なんじゃないですか？ とか、そういうところを乗り越えてなおかつやっぱりiPhoneなんだというのは、結局ガジェット愛なんだろう。
私が未だにiPhoneユーザーではないのも、それ故なのかも。SFファンではあっても実はそれほどガジェットには萌えないんだよね。
まあ…どうでも駄文だけどね。 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/591</link>
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		<title>本と本屋さんの夕日</title>
		<description>永江朗さんの「本と本屋さんの夕日」の連載が終わった。（第一回は「平成生まれでもよくわかる現代出版文化論講座開講！ -- 2009/04/17 -- 本と本屋さんの夕日 」）。いろいろと勉強になることもあったし「そこへ突っ込むか？」とちょっと疑問に思った回もあったりしたが、それにしてもやっぱり永江さんはプロだな、と終始思いながら読んだ。
永江朗さんは私と同じ1958年生まれの上に同じ北海道出身なので、なんとなく勝手に比較して「永江さんはがんばっているのにオイラのていたらくはどうだろうねぇ…」などと思って落ち込むこともある。今年は特に偶然同じ誌面に連載を持っていたのでとりあえず毎月自分の原稿を読み返して反省する時に、一緒に永江さんの文章も読んでさらに落ち込むということをやっていたりした。微妙に論旨がかぶるような発言をしていることもあってひとり苦笑したりもした。永江さんは言うまでもなく私より圧倒的に長い期間、しかもプロとして（それで実際に生活をするという意味でプロで）ライターをやっているわけでそもそも比較してみること自体がおこがましいが。
自分の出版業界内での知名度や影響力にはまったく幻想を持っていない（つまり、ほとんど知られていないし、発言が影響力を持つことはさらにない）が、それでもそろそろ思いがけないところで「セミナーに参加しました」という人や「本を読みました」という人に出会うようになった。まったく関係がない（はずの）仕事で話したりメールのやり取りをしたりしていて、いきなり相手からそういう話題を持ち出されるとちょっとぎょっとしたりする。実際毎回数十人の参加者を前に偉そうに語ったり実技指導したりしているのだし、かなりしばしば自分が少なくとも一冊の本の著者であるということを忘れていたりするにしても、それなりに自分が何年かやってきたことの責任というものがあるわけで本気でぎょっとしたりしている場合ではないのだが、どうも自覚が足りない。
…そして、来年はがんばりますという話に続いていくとなんだか年末の投稿としてもっともらしくていいのだけれど、なんだか今そもそもこの記事の始めの方に書いた「同じ1958年生まれ（…）なので」という発言自体にほとんど意味がないな、と思い始めて苦笑しているところなのである。
1958年生まれといえばたとえばマイケル・ジャクソンがそうだし、ティム＝バートンもマドンナもそうで、そんな人々と同じ年に生まれたからといってそれ自体に何の意味が？ 自分ができることを精一杯やって、評価は他人に委ねるしかないでしょう。うん。 </description>
		<link>http://www.ikimono.org/diary/archives/590</link>
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