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11-30


本の値段

古本の値付け

近所の古本屋へ出かけてドサッと本を仕入れてくる。
安いことは確かに嬉しいのだが,時々「これが 100 円ってことはないよなぁ」と思うことがある。「これはどう考えても 100 円以上の価値はあるだろう」と。
(以下分かりやすくするために最近最も多い形態の古本屋を『新古書店』と呼ぶことにするけれど,本当はこの言葉は日本語として異様におさまりが悪くて好きではない)。
需要と供給のバランスを元に値付けすると,大ヒットした → 出版部数がのびた → 新古書店に持ち込まれる部数が多い → 安くなる,ということになるわけかな?一見分かりやすい図式だけれど,実は新古書店に持ち込まれる部数が多くかつ持ち込まれた部数に見合うほどには売れないという風に考えないと成り立たなくなる。

ということは,新刊として発売された時にやみくもに買ったけれど手放した人が多い,ということでもあるし,その後(新刊の時に話題なったほどには)見向きされない率が高い,ということでもある。
安出来の本(と私が自分の価値判断では思う本)だけがそのようになっているのであれば,だから結局本は新刊の時に明らかに作りすぎているのだ,一種の小バブルを毎回やらかしているのだ,と言ってしまうことも出来る。

けれども「これはいい本だよな」というものでも,同じことが起こっている場合もある。
新古書店が人気に素早く答えるべくある時期過剰に仕入れ(買い取り)をする結果だ,という推測もある。
名作だろうがクズだろうが,多くの人はただ「評判になっている」という理由だけでしか本を買っていないからそうなる,という推測も,あり得る。
うーむ・・・。

本の変遷

100 円で買った本でも,すごく良かったと本の内容そのものをほめている人もいる。良いものは高く,悪いものは安いというのが正常な価値判断だという考え方は,はたして今でも本当に有効なのかな,と思うことがある。

昔は本は全て写本しないと複製できなかったので,とても高かった。
グーテンベルク以前,本を沢山持っている人というのは,だからとても金持ちか,とても変わった人だった。歴史物語やファンタジーに沢山の本に囲まれて暮らしている変人とか魔法使いとかのシーンがあったら,本当は想像力を働かせて,すごく驚きながら読まなければいけない。
今の日本に置き換えてみれば,友人の自宅を訪ねていってみたら,なぜか専用のサーバルームがあってラックに並んだ何台ものブレードサーバがうなりをあげているのを目撃してしまった,というくらいの違和感か。
いくらパソコンが普及してきて家族でも一人一台とか,ちょっと趣味が高じている人なら個人で複数台とかいうのは,まあそれほどは驚かない。でも,個人でブレードサーバはないだろ。そのために専用の部屋まで用意して,一体おまえは何をやっているんだ。もしかして何か怪しいビジネスでもやってるのか?と友人を問いつめてみたくなるだろう。
そして友人の答えが,あくまでも自分が楽しいからしているだけであって,その楽しみのためにはサーバが複数台どうしても必要なのだ,ということであったら「おまえ,なんかおかしいよ」と思わず言うかもしれない。
少なくともそのくらい,グーテンベルク以前に沢山の本を持っている人というのはおかしいのだ,と読みとらなくてはいけない。

今私の目に入る範囲だけでざっと2000冊くらいの本がある。目に入らない別の部屋にはもっとあるので,もしかすると10000冊に迫るくらいの本がこの家にはあるかもしれない。
万巻の書,という言葉が,今では誇張表現ではなくなってしまったわけだ。白髪三千丈は今でもちゃんと誇張表現なのに。
グーテンベルクはたしかに本の値段を安くすることで情報革命を呼び起こしたけれど,それはあくまでも相対的なものだった,落差が大きかっただけだ,とも言ってしまえる。実際に個人が万巻の書を所有する事態になった今,本の価格と価値の間にはもっと新しい仕組みが必要なんじゃないだろうか,と思ったりする。



そんな(お休みな)日常

二つ三つ,もうやろうと思っていることはあるが,もう少し頭の中に寝かせておくために(と言ういいわけかもしれないけれど)あえて明日以降へ回す。