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03-18


裏切り者っぽい発言をしてみる

読書というスタンスとも違うので掲示板ではなくこちらに書いておきますが,昨日藤脇邦夫『出版幻想論』を今更読みました。ある人の判断力を検証するためとか,逆にそのテーマとなっている状況そのものの変化を確認するためとかのために,時々意識的に古くなった「論」を読んでみるということをしますが,まあやっぱり出版業界の場合にはあらゆることの動きが本当に遅いよなぁとつくづく。びっくりするくらい遅い。
変化が早いことをよしとするというのも,一種のトンデモ思考なのだけれど,それにしてもそんな罠に陥りそうもないくらい遅いというのもねぇ…。

それにしても出版業界というのは,実に自己言及が多い業界だな,と思ったりします。
業界について書かれた本です,という明確な出版物はそれほどは多くないように見えますが雑誌なども含めて,出版物に対して言及する出版物,出版物に対して言及する出版物にさらに言及する出版物というふうに見ていくと,これはとても多い。
これはもう業界全体が一種の巨大な同人誌だな,と思えてきます。
いいから仕事しようよ,と(苦笑

個人的な好悪も関係しているのかもしれませんが,小説や評論を学問として大学で教えたり研究したりするのは如何なものか,いや,研究するのは好きずきだからやりたい人はやってかまわないけれど,それが何らかの権威があるかのように「学」をつけて「文学」と称するのは如何なものかと,ずっと反感を持ってきた。
そもそも中学1年生の時から小説を書き始めて多分30歳過ぎくらいまではずっと書き続けていたのだけれど,高校でも文芸サークルには入らなかったし,大学でも二回だけ顔を出して辞めたのは,そのころからすでに小説や評論をみんなで寄ってたかっていじくり回すのは変だ,とあきらかに思っていたからでしょうね。これはもう論理的にどうこうというのではなく,生理的な嫌悪感に近いものでした。

昔,レタス畑の光景をピアノの鍵盤にたとえた,農家の人が作った俳句というものを偶然読んで,ああ,どんなことをしている人でも自分がやっていることに対して強い愛着と幻想を持っているものなのだな,とちょっとした衝撃と共に悟った経験があります。
そういう意味では,おそらくどんな業界でも内部では熱心に自己言及をしていることでしょう。
ただ出版業界の場合,たまたま商品が活字コンテンツなので自己言及がそのまま商品にもなりうるというか,しばしばうっかり商品として漏れ出てしまうというねじくれた関係が当たり前のように出来上がってしまっているように思います。
農家の人がレタスを深く愛し,自分のハウスに入った時にふと黒い土に規則正しく並んだ白いシートがピアノの鍵盤のようだと感じ,その連想から自分のハウスにみずみずしいレタスの音楽が静かに流れているような思いを抱くということは,あってよいし,とても素敵なことだと思います。
しかし農家の人はそれを俳句として綴ることはあっても,その感動をレタスを品種改良して表現しよう,食べられなくてもいいからそういうことを誰にも感じさせる変態レタスを作ろう,とは多分しないでしょう。

「いいから仕事しようよ」というのはそういう意味合いです。

自己言及に夢中になっているので参照し合うのもお互いの発言ばかり。
これはネットが普及してきてもほとんど変わっていない。
検索エンジンの性能も上がっているのだしblogサイトも爆発的に増えているのだから,全く普通の人がどんなふうに本を探して,どんなものと一緒に買って,どんな不満を抱いたのかというようなことを一生懸命見ればいいじゃない。そこに無償で気前よく公開されているユーザーの声があるんだよ。
週刊文春の事件に報道・出版の自由だのというもっともらしいけれど無意味なスタンスから発言して満足していないで,芥川賞掲載の『月刊文藝春秋』を『ぼくドラえもん』と一緒に必死に探していた人がたくさんいたという事実をどう受け止めるかまじめに考えてみた方がいいんじゃないの?



新作だけれど

「書店営業にヒント」新作25.新奇さを公開しました。
まあ…悪いというほどではないですが,たいしたものではないですね。いずれもっときちんと事例を区別して書き直す必要があります。
…やれやれ雨が吹き降りになってきた。






©akio ishizuka