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03-29


フィルタリング

いかに捨て去るかの方がもう切迫した要求になってきているかも,ということに関してここ数ヶ月ずっと考えていて,いずれまとまった文章を書こうと思っているのですが,例によって「放置」になってしまう可能性も高いので,とりあえずここにいい加減に書いておきます。
ここで言う捨てるものは「情報」です。

そういうことを思い始めた単純な動機は二つあります。
ひとつは「世の中ほんとうに本だの雑誌だのが多すぎるよね」
もうひとつは「インターネットとかの膨大な情報をどうするわけ?」
日本は「飽食の時代」と言われるものになって久しいわけで,いかにして体を維持するために食べ物を手に入れるかということが最も重要な時代を過ぎ,どのように美味しいものを見つけるかという時代さえも過ぎかけていて,いかにして食べないか(広義のダイエット)という時代にだいぶん前から入っているわけです。
広義のダイエットには,カロリーを取りすぎないということだけではなく体にとって良いものだけを効率よく摂取するために選択をするという意味も含まれ,これがいわゆる健康ブームとかぶっています。
さて,これと同じことが広い意味で情報にも起こっている,あるいはこれからはっきりと起こるのではないかな,というふうに感じます。
本や雑誌が多すぎるとか,TVなどで垂れ流される情報が「氾濫」しているとか,インターネット上の情報は「ゴミばかり」だとか,そういうことはもうずいぶん前から言われてきていますが,上述したような「ダイエット」の段階にはまだ達していないように,私個人は思います。

つまり正面切って,過剰な情報をいかにして受け取らないか,という発想からの発言がまだかなり少ないのではないか,ということです。
情報というのは今でも「得れば得るほど良い」という暗黙の了解があって,あえて情報を拒むという態度はなんとなく後ろめたいような感じがするのかもしれません。情報をたくさん取得しているほど「物知り」であり,敬意をもたれるということになるわけですが,まず,一人の人間が知り得る情報にはそもそも限界があるという事実を無視しすぎではないかと思います。
このことを最初に感じたのは,かつて日本でもCNNの放映が始まった時です。
確かにこれは画期的だ,と思いました。居ながらにして世界中の情報が四六時中得られるというのはこれまであり得なかったことだと,ちょっと興奮しました。しかし,少し経つと,それでも私は24時間TVを見ているわけにはいかないという実に単純な事実に思い当たりました。
また,本が好きだからこそ,一生のうちに読める本には限界があるということをなんども実際に計算をしてため息をついたこともありました。ああ,どんなに頑張ってもこれだけしか読めない,と。

さて「量」の観点だけから言えば「可能な限り最大限」という方向を目指すのをよしとするか,それに対するものとして「質を重視」するかいう話になりがちなのですが,この場合の「質」という表現が実はかなり曖昧です。
良質な情報とはなんなのか,という議論が大抵抜け落ちているわけです。
本でいえば,いわゆる良書とか傑作とか称するものばかりを選んで読むようにすれば読書体験は質が良くなるのか?そうだ,と言いきってしまう方向で議論をする人も多いですが,それはかなり怪しいですね。(そもそも誰がある本が良書・傑作だと判断するのかという点の曖昧さをあえて無視して,世の中には良書・傑作というものが実在すると仮定したとしても)ある人にとって読書体験そのものが楽しく充実したものであるかどうかはそのこととは必ずしも一致しません。
このことはインターネット体験でも同じだろうと思います。インターネット上の情報は質が低くてゴミばかりだという意見は,それに対するものとして何らかの「質の高い」情報というものを仮定しています。一体それはなんですか?と聞いてみたい。

この議論が曖昧になりがちなのは,情報個別に質の高低があるという漠然とした前提なのだろうと思います。さきほどわざと「読書体験」「インターネット体験」という書き方をしたのですが,情報個別に何らかのしるしが付いているのではなく,主体はあくまでも体験をする個人にあります。
ある個人にとっては有用であったり,快感をもたらしたりする情報があり,その全く同じ情報は別の個人にとっては全く無用であったり不快感をもたらしたりする,というあまりに当たり前でつまらないけれど当然のことが見落とされているような気がします。(個人的な話ですが)時々文芸関連に限らずあらゆる批評行為というものに猛烈に嫌気というか虚しさを感ずるのは,あたかもあるものを徹底して分析すればそのものの価値を絶対的に定められると信じているかのような発想・行動をする人がいるからです。

さて,まだまとまった文章にしていないのはここから先が曖昧だからです。
ある人にとって必要であったり楽しみであったりする情報だけを積極的に選択するという方向の行動は正しいであろう,と。量として「より多く知る」のでもなく,あやまった「良質」という基準を適用するのでもなく,自分にとって要るのか要らないのかで徹底してフィルタリングをするということですね。
これは健康ブームの「体にとって良いものだけを効率よく摂取するために選択をする」という発想に近いです。健康ブームの場合もまだ「体にとって」はイコール「私の体にとって」ではないという観点が欠けているのですが,少なくとも情報を取捨するということに関していえば,まだ健康ブームの到来の段階に達していないように思います。
ビジネスにしても,個人の行動にしても,このフィルタリングという考え方をもっと押し進めていけるはずだと思うのですが,今ひとつ具体的な提示が出来ません。

スパムメールのフィルタリングと似ています。
出来るだけいらない情報を捨てることが必要だけれど,そのためにはこれはいらないという条件をはっきり理解してそれをフィルタにキーワードとしてセットしてやらなければなりません。つまり前提として自分が何を知らなくて良いかを意識的に把握していなくてはなりません。このキーワードを決められるのはその個人だけなので,そのような「仕組み」を提供したり,フィルタリングの技術を教えたりすることは出来ても,キーワードを用意してあげることは出来ません。
現状の日本というのは(そんなに広げていいのかどうかちょっと怪しいですが),情報提供側が同時に何らかのキーワードを提供することにおそろしく力を入れている一方,フィルタリングの仕組みやフィルタリング技術の教育をすることには全く力が入っていないというアンバランスな状態だな,と思うわけです。



二重の偶然

某社さんとの打合せの時間までに少しだけ間があったので,すぐそばがトーハンさんだったのでかつてのご担当者さんにでもご挨拶しようかと思って出向くと,偶然ロビーで某社へ転職したばかりのM氏に出会う。
トーハンさんに行ってみようと思ったのもその場の思いつきなので,つまりは二重の偶然。



誰か推薦図書プリーズ

フィルタリングの記事を書いたあと「もしかしてそういうことに触れていたりする?」と思って『「捨てる!」技術』をいまさら大急ぎで読んでみたりする。…いや,そういう発想では全然書かれていませんね。
どなたか私がフィルタリングの記事で書いたことと同じ,あるいは似た発想で書いてある本を知っているよという方がいたら教えてください。ビジネス寄りの書かれ方でも,評論寄りの書かれ方でも,どちらでもけっこうです。






©akio ishizuka